染顔料、化学品などを取り扱っております。
企業情報
創業者松浦孝七は、弘化3年、第八世亀屋左京の三男として近江国伊吹山のふもと、柏原に生まれ、家業の艾商に従事していたが、慶応4年山崎屋太兵衛商店(現:田中直染料店)に入店。明治10年、京都市下京区にて、絵具染草中次商を始めた。孝七の堅実な経営方針と進取な経営施策により業績は順調に伸び、別家後10年にして他の染草商と肩を並べるまでになる。時代は天然染料から人造染料に変わる激動のときを迎えることになる。二代目松浦房造(松浦株式会社初代社長)は第九世亀屋左京の三男として出生。明治27年、房造11歳の時、叔父である孝七商店に入店。房造は店主孝七の後継者として、わが国を襲った大不況や大戦後の反動不況など幾多の激動の試練を乗り越え、染料業界の重鎮として活躍し、松浦染料卸商社としての発展と繁栄に大きな足跡を残した。
化学で未来を拓く一翼を担ってきた松浦のあゆみ。
明治10年 | 京都市下京区に絵具染草仲次商を開業。松浦商店は堅実な経営方針と先取的な営業施策によって順調に成長。 |
明治36年 | 市場が天然染料から合成染料へと転換するに伴い、商都・大阪船場に進出。 |
明治41年 | 名古屋店を開設。 |
大正4年 | 東京支店を開設し、営業規模を拡大。明治後半から大正初期にかけて松浦商店は染料問屋として地盤を固める。日本染料製造(株)の取扱商として国産染料を販売。 |
大正5年 | 資本金25万円で合名会社松浦染料店へと発展。 |
大正8年 | 株式会社松浦商店(資本金100万円)へと発展。 |
大正11年 | 本社を京都より大阪に移転すると共に和歌山、福山に出張所を開設。全国的に業務を拡大。 |
大正12年 | 関東大震災により家屋、商品ともに焼失損害多大。 |
大正14年 | 浜松出張所開設。 |
昭和5年 ~12年 |
海外においても中国、韓国各地に展開を図り「染料の松浦」として業界をリードする。資本金を200万円に増資。 |
昭和13年 | 稲畑、松浦共同出資会社を満州に設立。 |
昭和14年 | 家庭品部新設。化粧品販売開始(ビタオール本舗) |
昭和18年 | 化成品配給(株)設立。 |
昭和20年 | 終戦。名古屋、大阪社屋焼失。 |
昭和27年 | 資本金600万円増資。 |
昭和31年 | 福井出張所開設、資本金1200万円に増資。 化学品全般にわたる営業体制の強化を図る。 |
昭和39年 | 社名を松浦株式会社と改める。 |
昭和44年 | 主力取引メーカー・住友化学の経営参加を得て、住友化学関連グループ企業として新たにスタート。 |
昭和48年 | 資本金を3000万円に増資。 |
昭和52年 | 東京、名古屋支店社屋を竣工。 |
昭和62年 | 本社社屋竣工。 |
平成6年 | 事業本部制の導入により営業力強化。 |
平成8年 | 資本金を6000万円に増資。 |
平成11年 ~12年 |
さらなる発展をめざし、組織を染顔料、化学品、電子機材、機能材の4事業本部制に改編し、化学品専門商社として活躍を展開した。 |
平成14年 | 営業部を一本化。 |
平成19年 | ISO14001認証取得 新役員構成の元、創業130周年を迎え、松浦改革元年として、「挑戦・努力・忍耐」をモットーに次代へ展開。 |
平成20年 | 北陸営業所開設。 |
平成22年 | 台湾駐在員事務所開設。 |
平成25年 | 松浦日本橋ビル(東京支店新社屋)を竣工。 |
平成26年 | シンガポールに現地法人「MATSUURA SINGAPORE PTE.LTD」を設立。 |
令和元年 | 持株会社として「松浦ホールディングス株式会社」を設立。 |
令和2年 | 松浦創業家より全株式を松浦ホールディングス株式会社が購入。 |
令和3年 | 北陸営業所移転。福井支店に名称変更。 |
鬼マークの由来
昔から、“鬼に金棒”という諺があり、このマークのついた商品は強い会社、強い商品であるイメージを与える為に考えられた商標です。
松浦の鬼マークは、大正後期から昭和初期の頃、松浦独自商品である輸入染料にトレードマークとして使用され、染料業界の歴史の記述にたびたび掲載されています。